― 家柄から学問へ、社会の価値基準を変えた制度 ―
科挙とは、国家が官僚を選ぶために行った試験制度です。一言でいえば、
「学問を身につけ、試験に合格すれば、だれでも官僚になる道が開かれる」
という制度でした。
これだけを見ると、現代の国家試験とそれほど変わらないように感じるかもしれません。
しかし、当時の中国社会にとって、これは非常に大きな意味を持っていました。
『家柄』の時代から、『学問』の時代へ
科挙が登場する以前の中国では、政治の中心を担う人々が、必ずしも「試験で選ばれた人」ではありませんでした。
特に魏晋南北朝の時代には、有力な家柄を持つ一族が政治的な力を持ち、官僚の地位も家柄と強く結びついていました。
つまり、
「誰の家に生まれたのか」
ということが、社会的な地位を大きく左右していたのです。
もちろん、科挙が始まったからといって、この仕組みが一夜にして消えたわけではありません。
唐代にも貴族層の特権は残っていました。
しかし、科挙はそれまでとは異なる道を社会の中に作りました。
それが、
「学問によって官僚になる」
という道です。
これは非常に重要な変化でした。
家柄を持たない者であっても、学問を身につけ、試験に合格することによって、国家の官僚となる可能性が生まれたからです。
完全な身分平等ではありません。
まだまだ貴族特権の残る時代です。
しかし、
「生まれ」だけではなく、「学んだこと」が人生を変える可能性を持つことになったのです。
このことが、科挙の大きな意味でした。
唐代には科挙以外の任官経路も残っていましたが、宋代になると科挙の重要性はさらに高まり、合格者には高い官職への道が開かれるようになります。
社会化する学問
では、なぜ人々はそこまでして科挙を目指したのでしょうか。
理由は単純です。
合格すれば、国家の官僚になる道が開かれるからです。
官僚になれば、単に仕事を得られるだけではありません。
社会的な身分が上がり、地域社会でも大きな影響力を持つことができます。
宋代には、科挙制度の整備と進士合格者への高い官職の保証、さらに官立・私立学校の普及が重なり、大規模な「読書人」の社会層が形成されました。
科挙に合格して官職を得た者だけでなく、合格を目指して学ぶ者そのものが、社会の中で一定の地位を持つようになったのです。
つまり科挙は、単に、
「試験に合格した人を選ぶ制度」
というだけではありません。
社会全体に、
「学問を身につけることには価値がある」
という考え方を広げる制度でもあったのです。
科挙と儒教
ここで、今回の話につながります。
科挙が社会的に大きな意味を持つようになると、次の問題が生まれます。
それは、
「いったい、何を勉強すればいいのか」
という問題です。
試験に合格すれば人生が変わる。
ならば、人々は試験に出るものを学びます。
試験内容は、国家が評価する学問です。
それが社会にとっての「学ぶべき知識」になっていくのです。
ここで、科挙と儒教が強く結びついていきます。
科挙では儒教の経典が重要な試験科目となっていました。
特に唐代には、儒教の基本経典である「五経」が重要な位置を占めます。
つまり、
「官僚になりたい」
と思えば、
「国家が認める儒教の知識を学ばなければならない」
という構造が生まれたのです。
この仕組みが重要なのは、儒教が単なる一つの思想や宗教として広がったのではなく、社会的に成功するために学ぶべき知識として広がっていったことです。
では、その「五経」とは何なのでしょうか。
科挙の重要な学問「五経」
儒教の基本となった五経
五経とは、儒教において特に重要とされた五つの経典です。
『易経』は、陰陽や変化の原理を考えるための古典です。
『書経』は、古代の政治や君主の言葉などを伝える文献です。
『詩経』は、古代の詩歌を集めたものです。
『礼記』は、礼や社会秩序、儀礼などについて記した文献です。
『春秋』は、魯国の歴史を記した年代記であり、後世にはその解釈を通じて政治や道徳を考える重要な経典となりました。
ここで重要なのは、これらが単なる「昔の本」ではなかったことです。
これらは、
「国家を支える正しい知識とは何か」
を考える上で重要な基準となっていったのです。
しかし、ここには一つ問題がありました。
五経には、長い歴史の中で非常に多くの注釈がつけられていたからです。
解釈を整理した『五経正義』
同じ経典でも、解釈は一つではなかった
五経は非常に古い文献です。
そのため、時代が下るにつれて、さまざまな学者が解釈を加えていきました。
同じ文章でも、
「この言葉はこういう意味だ」
「いや、こちらの意味だ」
という異なる解釈が存在していたのです。
さらに南北朝時代には、南北で異なる学問の伝統が発展し、五経の解釈も多様化していました。
これでは、国家が五経を科挙の試験に使おうとしても困ります。
同じ問題を出しても、
「私はこの注釈に従えば正しいと思います」
「私は別の注釈に従っています」
ということが起こるからです。
そこで唐の太宗は、五経の解釈を整理し、国家として基準となる注釈を作ろうとしました。
その中心となった人物が、儒学者の孔穎達です。
『五経正義』という国家の基準
こうして編纂されたのが、
『五経正義』
です。
653年に完成したこの書物は、五経について、それまでに存在していたさまざまな注釈や解釈を整理し、国家が採用する標準的な解釈としてまとめたものでした。
ここで重要なのは、すでに存在していた五経に対して、
「この経典は、こう理解する」
という国家公認の基準を作ったことです。
それはいわば、
「何を読むか」
だけではなく、
「どう読むか」
まで基準をそろえたということになります。
『五経正義』は、その後、科挙の明経科における経典解釈の基準として使われるようになりました。
つまり国家が、
「この経典を学びなさい」
としただけではなく、
「この経典は、この基準に従って理解しなさい」
というところまで関与するようになったのです。
科挙が儒教を広げた仕組み
ここまでを、一度整理してみましょう。
国家が官僚を選ぶために科挙を行う。
↓
科挙に合格することが、社会的に大きな意味を持つ。
↓
合格するためには、「国家が試験で求める学問」を学ぶ必要がある。
↓
その中心に「儒教」の経典がある。
↓
五経の解釈については、『五経正義』が国家の基準となる。
この流れができると、
「官僚になりたい人ほど、国家が定めた儒教的な知識を学ばなければならない」
という構造が生まれます。
そして、その影響は受験者だけにとどまりません。
科挙を目指す人が増えれば、その人たちを教える学校や教師も必要になります。
教科書も必要になります。
家庭でも子どもに学問を教えるようになります。
こうして、国家の試験制度を中心として、儒教の知識が知識人層へ広がっていきます。
宋代になると、この傾向はさらに強くなりました。
科挙が官僚登用の主要な経路となり、受験者が増加するとともに、学校教育も発達していきます。
結果として、科挙は単なる官僚選抜試験ではなく、
「社会で何を学ぶべきか」
を決める巨大な装置になっていったのです。
陰陽五行も科挙制度へ
ここで、ようやく陰陽五行の問題につながります。
『五経正義』そのものは、陰陽五行について書かれた専門書ではありません。
しかし、五経をどのように理解するのかという「国家公認の儒教解釈」が定められ、それが科挙や官学を通じて学ばれるようになったことには、大きな意味があります。
陰陽五行もまた、こうした儒教的な学問体系の中に位置づけられ、儒教的な宇宙観と結びついた形で理解され、伝えられていくことになります。
つまり、
「科挙が陰陽五行を直接教えた」
という単純な話ではありません。
そうではなく、
科挙が儒教を「学ぶべき知識」として社会に広げ、
その儒教の枠組みの中で「再編された陰陽五行」も、同じ知識体系の一部として広がっていった。
ここが重要なのです。
そして、宋代になると、ここにもう一つの大きな力が加わります。
それが、
「朱子学」
です。
次は、この朱子学が陰陽五行をどのように組み込んでいったのかを見ていきます。

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