消えた陰陽五行【第二章】四象十二支の世界⑼ 第二章総括/二つの宇宙が重なった「四象十二支論」/琉球四柱推命

消えた陰陽五行【第二章】四象十二支の世界

前回は、六壬神課の「地盤」「方合」「三合」という三つの構造を見ました。
そこに共通していたのは、十二支を「五」ではなく「四」によって整理する構造です。

  • 地盤では、十二支が四方に三支ずつ配置される
  • 方合では、隣接する三支から四つの方局が成立する
  • 三合では、離れた三支から木・火・金・水の四局が成立する
  • 三合には、辰・未・戌・丑だけをまとめた「土局」が存在しない
  • 現在土とされる四支は、三合では木・火・金・水の各局へ一支ずつ分かれる

一方、後世の標準的な五行属性では、辰・未・戌・丑はすべて土に分類されます。
十二支には、少なくとも二つの構造が重なっています。

ひとつは、四方に三支ずつを配する「四」の構造

もうひとつは、木火金水に二支ずつ、土に四支を配する「五」の構造

第二章の総括では、この二つの宇宙がどのように成立し、どのように重なった可能性があるのかを整理します。

  1. 1. 第二章でたどった十二支の歴史
    1. 第一段階――「紀日」の十二支
    2. 第二段階――「天文」「方位」「術数」へ広がる十二支
    3. 第三段階――「四方」「四神」「十二支」の統合
    4. 第四段階――四方の構造に重なる「中央土」
    5. 第五段階――土が時間に加わる
    6. 第六段階――「辰・未・戌・丑=土」の明文化
    7. 第七段階――二つの構造の併存
    8. 十二支の発展――七つの段階
  2. 2. 史料と術数構造から確認できること
    1. ① 十二支は、最初から五行の属性を伴って現れたわけではない
    2. ② その後、十二支は複数の体系と結びついた
    3. ③ 前漢期には、四方と四神の対応が術数で用いられていた
    4. ④ 漢代には、四神と十二支が一つの図柄に組み込まれていた
    5. ⑤ 土は、五行体系の中でも他の四行とは異なる位置に置かれていた
    6. ⑥ 前漢初期には、土を四季の時間へ関与させる発想があった
    7. ⑦ 後漢期には、「辰・未・戌・丑=土」が公的に説明されていた
    8. ⑧ 後世の術数では、「四」と「五」の分類が併存している
  3. 3. 本稿が提示する仮説「四象十二支論」
    1. 「四象十二支」論と現在の「十二支五行」論
    2. 四象十二支論という仮説
  4. 4. 四方三支の技法は、四支土説とは独立して存在し続けている
  5. 5. 「四象十二支論」とは何か
  6. 6. 「消えた陰陽五行理論」の提唱
    1. ① 狭義の「消えた陰陽五行理論」
    2. ② 儒教型陰陽五行
    3. ③ 広義の「消えた陰陽五行理論」
  7. 7. 第二章の結論
  8. 8. 第三章へ――制度が沈黙させた理論

1. 第二章でたどった十二支の歴史

第二章の出発点は、殷代の甲骨文でした。

そこから戦国・秦・前漢・後漢、さらに後世の六壬神課まで、十二支が背負った≪意味の変化≫を追ってきました。大きな流れを整理すると、次のようになります。

第一段階――「紀日」の十二支

現存史料上、十二支は殷代甲骨文の紀日(きじつ――日を記録するための仕組み)の体系に、最古級の確実な姿を現します。

甲子・乙丑など、十干と十二支を組み合わせた六十干支によって、占卜を行った日が記録されました。

少なくとも現存する甲骨文において、十二支の最も明確な役割は、日を数えるための循環記号です。

この段階の資料からは、後世のような固定的な十二支五行配当を明確には確認できません。

第二段階――「天文」「方位」「術数」へ広がる十二支

戦国末から秦漢期になると、十二支は紀日だけでなく、月、天文、方位、移動、選日、吉凶判断などへ用途を広げます。

この変化には、木星の約十二年周期だけでなく、
一年の月を十二に分ける、天の位置を十二の領域に分けるなど、

さまざまなものを「十二」に区分して捉える考え方

が関係したと考えられます。
十二支は、単に日を数える記号から、時間と空間を表すための共通の記号へと、その用途を広げていきました。

第三段階――「四方」「四神」「十二支」の統合

前漢期の術数文献には、東西南北と青龍・朱雀・白虎・玄武を対応させる記述が現れます。
漢代の方格規矩四神鏡には、四神と十二支を一つの図柄の中に組み込んだ例があります。
そこでは四神による「四方」と、十二支による「方位の区分」が、ひとつの構造として結びついています。

この体系では、十二支は次のように四方へ配されます。

方位四神十二支
青龍寅・卯・辰
朱雀巳・午・未
西白虎申・酉・戌
玄武亥・子・丑

四方に三支ずつ、合計十二支。

本稿では、この四方・四神・十二支を結びつける構造を「四象十二支体系」と呼びます。

第四段階――四方の構造に重なる「中央土」

『淮南子』などに見られる五行の対応関係では、木・火・金・水が、それぞれ東・南・西・北に配されます。そして、残る土は中央に置かれます。

位置五行
中央
西

ここで注目したいのが、土の位置です。

「木」「火」「金」「水」には、それぞれ対応する方位があります。
しかし、「土」には東・南・西・北と並ぶ第五の方位がありません。

同じことは十二支にも当てはまります。
十二支は四方(東西南北)にそれぞれ三支ずつ、全十二支が配されているため、
「中央」に属する十二支は存在しません。

つまり、土だけは
木・火・金・水と同じように、「一つの方位」や「三つの十二支」を受け持つ存在ではありません。

それでも土は五行の一つとして、中央に置かれます。
『淮南子』などの文献では、この中央の土が

四方に関わり、季節の移り変わりを支えるもの

として説明されています。ここでは、

四方に十二支を配する構造≫の上に、
中央に土を置く五行の構造≫が重なっている

ことが重要です。

第五段階――土が時間に加わる

ここまで見てきたように、五行の空間の配置では土は「中央」に置かれていました。
では、土は時間の配置ではどのように扱われたのでしょうか。

馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)には、春・夏・秋・冬のそれぞれの季節の三か月について、木・火・金・水が土と期間を分け合うように読める記述があります。

春三月木分土、夏三月火分土、秋三月金分土、冬三月水分土。

ここでは、春の木、夏の火、秋の金、冬の水が、それぞれ土と同じ時間を分け持つように表現されています。

ただし、この一節だけから、辰・未・戌・丑の四つの地支に土を割り当てる考え方まで、直接導くことはできません。重要なのは、中央に置かれていた土を、

四季という「時間」の中にも関わらせる考え方が、すでに見られる

ことです。
本稿では、このような土の時間への参加を、後世に見られる土旺・土用の考え方へつながる可能性を持つ、早い段階の事例として捉えます。

第六段階――「辰・未・戌・丑=土」の明文化

後漢期になると、『白虎通義』において、土と辰・未・戌・丑との対応が、はっきりと説明されます。

『白虎通義』は、後漢の章帝の時代に行われた白虎観での議論をもとにまとめられた、儒教の経典についての≪公的≫な議論をまとめた書物です。

その中で、土について、

土は中央にあり、辰・未・戌・丑を主る

という趣旨の説明が見られます。

ここで重要なのは、『白虎通義』がこの考え方を最初に作ったということではありません。
すでに第五段階で示した、馬王堆帛書などの、より早い時期の資料にも、土と四季との関係を示す記述が見られます。
重要なのは、後漢期には、辰・未・戌・丑を土に対応させる考え方が、儒教の経典をめぐる公的な議論の中で説明されるまでになっていたということなのです。

つまり、この段階で「辰・未・戌・丑=土」という対応は、単なる術数上の考え方ではなく、
当時の正統的な知識体系の中でも説明される段階に入った
と考えられます。

第七段階――二つの構造の併存

辰・未・戌・丑が土に分類されるようになった後も、それ以前から存在していた「四方に三支ずつ配する構造」そのものは消えませんでした。

後世の術数では、十二支について、次の二つの分類が同時に使われています。

方位分類

方位十二支
寅・卯・辰
巳・午・未
西申・酉・戌
亥・子・丑

五行属性

五行十二支
寅・卯
巳・午
申・酉
亥・子
辰・未・戌・丑

ここで、二つの分類を比べてみると、一つの十二支が必ずしも一つの分類だけに属しているわけではないことが分かります。

たとえば辰は、方位では東に属しますが、五行では土に分類されます。未は南、戌は西、丑は北に属しながら、いずれも五行では土です。

さらに、方合と三合という十二支の組み合わせにも、この「四」の構造が残っています。どちらも四つの組から成り、独立した「土」の組はありません。

とりわけ三合では、現在では土に分類される辰・未・戌・丑が、木・火・金・水の四つの組に一支ずつ分かれています。

三合局十二支
木局亥・卯・未
火局寅・午・戌
金局巳・酉・丑
水局申・子・辰

つまり、辰・未・戌・丑は、「五行では土としてまとめられる」一方で、
三合では土として一つにまとめられることなく、「木・火・金・水の四つの組に分かれている」のです。

ここには、二つの異なる構造が並んでいます。

四方三支、方合、三合という「四」の構造。木火金水土という「五」の構造。

そして重要なのは、後から五行による分類が加わったにもかかわらず、
それ以前から存在していた「四」の構造が廃止されたり、五行の「五」に統合されたりしていないことです。

「四」の構造と「五」の分類は、どちらか一方に整理されることなく、後世の術数の中で並行して使われ続けています。

この併存こそが、第二章全体の問題を考える重要な手掛かりになります。

十二支の発展――七つの段階

第二章でたどった十二支の歴史をまとめるとこうなります。

  1. 第一段階 → 十二支は「日」を数える記号として使われた
  2. 第二段階 → その十二支が、月・天文・方位・術数へと用途を広げた
  3. 第三段階 → さらに十二支が四方に三支ずつ配され、「四方三支」の構造が成立した
  4. 第四段階 → そこに五行が重なり木・火・金・水が四方に配され、土は「中央」に置かれた
  5. 第五段階 → 中央に置かれた土がさらに「四季」という時間の中にも参加するようになった
  6. 第六段階 → そして土は「辰・未・戌・丑」という具体的な十二支と結びつけられるようになった
  7. 第七段階 → こうして生まれた五行による分類と、それ以前からの「四方三支」の構造は統合されず、二つの構造として併存した

このように、十二支の歴史をたどると、古くからの「四」の構造の上に「五行」の分類が重なり、両者が併存したまま現在の十二支体系へつながっていることが見えてきます。

2. 史料と術数構造から確認できること

ここでは、これまで見てきた史料と術数の構造から、実際に確認できる事実を整理します。

① 十二支は、最初から五行の属性を伴って現れたわけではない

現存史料上、十二支の最古級の確実な用途は、殷代甲骨文における紀日です。

そこから後世の「子=水」「辰=土」という固定的な配当を明確に確認することはできません。
したがって、現在の十二支五行配当を、十二支の成立時から自明に備わっていた性質ではないことがわかります。

② その後、十二支は複数の体系と結びついた

十二支は、紀日だけに使われ続けたのではありません。

戦国末から秦漢期にかけて、月、天文区分、方位、選日、移動、吉凶判断など、紀実から複数の領域へ利用が広がりました。

十二支は、異なる体系をつなぐ「共通の記号」として使われるようになります。

③ 前漢期には、四方と四神の対応が術数で用いられていた

孔家坡漢簡『日書』は、四方と四神の対応が、単なる神話や装飾ではなく、
選日や占術に関わる実用的な知識として使われていたことを示します。

④ 漢代には、四神と十二支が一つの図柄に組み込まれていた

方格規矩四神鏡には、四神と十二支を同じ図柄の中に組み込んだ例があります。
このことは、少なくとも漢代には、

四神と十二支が同じ方位の秩序を表す要素として組み合わされていたことを示します。

⑤ 土は、五行体系の中でも他の四行とは異なる位置に置かれていた

木・火・金・水が東・南・西・北に配されるのに対し、土は中央に置かれます。

土は五行の一つですが、他の四行と同じように一つの方位を受け持つわけではなく、中央だけに属する十二支もありません。

この土の特殊な位置づけは、『淮南子』などの文献から確認できます。

⑥ 前漢初期には、土を四季の時間へ関与させる発想があった

馬王堆帛書の「木分土」などの記述は、木・火・金・水と土との間に、四季の期間を分け合う関係が設定されていたと解釈できます。

具体的な配分方法には検討の余地がありますが、土が中央に置かれるだけでなく、四季という時間にも関与していたことを考える材料になります。

⑦ 後漢期には、「辰・未・戌・丑=土」が公的に説明されていた

『白虎通義』の段階では、辰・未・戌・丑を土が主るという配当が、儒教の経典をめぐる公的な議論の中で説明されています。

『白虎通義』がこの考え方の最初の成立を意味するわけではありませんが、後漢期には、四支を土に対応させる考え方が、このような形で説明されていたことが確認できます。

⑧ 後世の術数では、「四」と「五」の分類が併存している

後世の術数では、四方三支という「四」の構造と、辰・未・戌・丑を土とする「五行」の分類が同時に用いられています。

さらに、方合と三合はいずれも四つの組から成り、独立した土局を持ちません。

つまり、「四方三支」という四の構造と、「木・火・金・水・土」という五の分類は、互いに置き換えられることなく、それぞれの構造を保ったまま併存していることが確認できます。

3. 本稿が提示する仮説「四象十二支論」

十二支には、東西南北の四方に三支ずつを配する構造があります。

東=寅・卯・辰
南=巳・午・未
西=申・酉・戌
北=亥・子・丑

一方、五行の四方配当は次の通りです。

東=木
南=火
西=金
北=水

この二つを重ねると、四方・十二支・五行が一体化した構造ができます。

東=木=寅・卯・辰
南=火=巳・午・未
西=金=申・酉・戌
北=水=亥・子・丑

ここには土に属する十二支がなく、土を中央に置く必要もありません。
十二支は四方に三支ずつ配され、
五行も木・火・金・水を四方に配することで、十二支全体を説明できます。

本稿では、この構造を「四象十二支」と呼びます。

「四象十二支」論と現在の「十二支五行」論

その後、五行体系の中で土が中央に置かれ、さらに四季にも関与するようになると、土を十二支に結びつける考え方が現れます。

五行四象十二支現在の十二支五行
寅・卯・辰寅・卯
巳・午・未巳・午
申・酉・戌申・酉
亥・子・丑亥・子
辰・未・戌・丑


「現在の十二支五行」は、

寅・卯=木
巳・午=火
申・酉=金
亥・子=水
辰・未・戌・丑=土

という形です。これを四象十二支と比べると、大きな変化が見えてきます。

もともとの四方三支では、

辰=東
未=南
戌=西
丑=北

でした。
ところが五行では、この四支がすべて「土」としてまとめられます。
各方位の末支が、五行では新たに「土」として括り直されたのです。

本稿は、この状態を単なる術数上の複雑さとは考えません。
むしろ、もともと存在していた四象十二支の構造に、後から別の「土」の理論が重なった痕跡ではないかと考えます。

四象十二支論という仮説

本稿の仮説は、次の通りです。

現在の十二支五行論とは別に、かつて「四方・四象を基礎とする十二支論」が存在していたのではないか。

この体系では、十二支は四方に三支ずつ配され、辰・未・戌・丑も、それぞれ東・南・西・北の一員として扱われます。
五行もまた、東・南・西・北に木・火・金・水を配します。

したがって、この体系では十二支の中に「土支」という独立した分類は存在しません。

その後、中央土や四季の土という考え方が十二支の体系に組み込まれ、辰・未・戌・丑が土として再分類されることで、現在の十二支五行論へと統合されていったのではないか。
そしてその過程で、もともとの

「四方・四象を基礎とする十二支論」そのものは失われたのではないか

これが、本稿でいう「四象十二支論」です。

この仮説に立てば、現在の十二支に残る「四」の構造は、五行体系の単なる例外ではありません。
それは、かつて存在した別の十二支論が、後世の五行体系に統合された痕跡と考えることができます。さらに、ここから重要な問題が生じます。

もし四象十二支論が存在していたなら、

命術が本来用いるべき十二支五行も、

現在主流となっている儒教的な五行配当とは

異なっていたのではないか。

本稿は、この可能性を、より大きな仮説である「消えた陰陽五行」へつなげて考えます。

4. 四方三支の技法は、四支土説とは独立して存在し続けている

四方三支、方合、三合という技法は、いずれも十二支を「四」の原理で扱う体系です。

構造第一局第二局第三局第四局
方合・四方三支寅・卯・辰 巳・午・未 申・酉・戌 亥・子・丑 
三合亥・卯・未 寅・午・戌 巳・酉・丑 申・子・辰 
  • 四方三支は、十二支を東西南北の四方位へ三支ずつ配する
  • 方合は、隣接する三支をまとめ、四つの方局をつくる
  • 三合は、離れた三支をまとめ、木火金水の四局をつくる

この三つの技法には、いずれも土に相当する組がありません。

そして重要なのは、四支土説が成立した後も、これらの技法が現在まで使われ続けていることです。

つまり現在の術数では、

辰・未・戌・丑を土とする十二支五行

を用いる一方で、

辰・未・戌・丑を土とせず、木・火・金・水の四局で十二支を扱っていた、かつての「四象十二支体系」

も、その名残りとして同時に残っています。

これは、現在の術数の中に、四支土説とは異なる「四象十二支論」が混在していることを意味します。

本稿では、この名残りこそが、失われた四象十二支体系の一部を現在に伝えているのではないかと考えます。

5. 「四象十二支論」とは何か

ここまでの内容を踏まえ、本稿における「四象十二支論」を定義します。

四象十二支論とは、十二支の基礎構造を、最初から五行の属性によって説明するのではなく、東西南北の四方と、そこに三支ずつ配された十二支の関係から捉え直す、歴史的・構造的仮説である。

この仮説は、次の構造を重視します。

  • 四方・四神と十二支は、五行を明示しなくても一つの方位体系をつくり得る
  • 四方三支の構造では、辰未戌丑も各方位の構成員である
  • 方合と三合はいずれも四局であり、独立した土局を持たない
  • 後世の十二支理論は、この四象十二支論を完全には消さずに上から重ねられている

したがって、本稿は次の可能性を提示します。

現在の「辰・未・戌・丑=土」という配当より前に、「十二支を四方三支として処理する構造」が成立しており、現在の十二支理論はその後に上書き的に加わったのではないか。

これは、史料に成立過程がそのまま記された確定史実ではありません。

しかし、

  • 甲骨文
  • 『日書』
  • 方格規矩四神鏡
  • 『淮南子』
  • 馬王堆帛書
  • 『白虎通義』
  • 六壬の地盤
  • 方合
  • 三合

という異なる資料と構造を、一つの歴史的問題として接続する仮説です。

6. 「消えた陰陽五行理論」の提唱

前回までの議論を踏まえ、本連載で使用する「消えた陰陽五行理論」を三つの層に整理します。

この三分類は、古代文献にそのまま記された学派名ではありません。
本稿が、現行の陰陽五行理論への問題提起をするために用いる分析概念です。

① 狭義の「消えた陰陽五行理論」

漢代経学による政治的・倫理的な再編とは区別される、自然周期、自然環境、自然変化の観察を重視した五行的知識の層です。

これは、漢代の儒教の影響を受ける以前、戦国秦漢期に存在した多様な自然観・天文知識・術数理論の理論です。儒教の台頭により、前漢中期以降、急速に弱まった思想・理論です。

② 儒教型陰陽五行

漢代経学、国家礼制、天人相関論の中で、五行を政治秩序、倫理秩序、王朝論へ結びつけた理論層です。

ここでは、五行が自然現象を説明するだけでなく、

  • 天子と四方
  • 徳治と災異
  • 王朝の正統性
  • 社会秩序と倫理

を説明する言葉として使われます。

後世の陰陽五行すべてが儒教型だという意味ではなく、医学、暦法、道教、風水、術数などにはそれぞれ別の展開がありますが、それでも主流の理論・思想であったと考えられます。

③ 広義の「消えた陰陽五行理論」

儒教型陰陽五行が台頭した後も、狭義の消えた陰陽五行がマイナー世界で進化し続け、古い方位・季節・十二支の構造と、後代の五行・干支・生剋などの理論が、術数の実践の中で重層的に統合されたものです。

六壬に見られる、

  • 四方三支
  • 方合四局
  • 三合四局
  • 四支土説
  • 五行生剋

の併存は、この重層性を考える一つの材料になります。

広義の「消えた陰陽五行理論」とは、古い理論が無傷のまま保存された体系ではありません。異なる時代の理論が重なり、実務の中で使い続けられながら再編された、複合的な体系です。

しかし、その理論も近代において儒教型に埋もれ、ほとんど残っていないと考えられます。

7. 第二章の結論

第二章を通じて、本稿が最も重視してきたのは、次の点です。

十二支と五行の固定配当は、十二支の成立時から自明に備わっていたものではない。

十二支は、現存史料上、まず殷代甲骨文の紀日体系に現れます。

その後、戦国秦漢期を通じて、月、天文、方位、選日、術数などへ用途を広げました。

同じ時代の中で、四方は四神と結びつき、四神と十二支は一つの方位図像へ組み込まれます。

さらに、

  • 四方
  • 四神
  • 十二支
  • 四季
  • 五行
  • 中央土

という、異なる数と目的を持つ分類体系が重ねられました。

その重層化の中で、辰・未・戌・丑を土とする配当が形成され、後漢期には経学的な言葉で明文化されていました。

したがって、現在の十二支五行配当を、

自然観測から必然的に導かれた、唯一可能な構造

とみなすことはできません。

より正確には、

現在の十二支五行配当は、天文・暦法・方位・術数・経学・政治思想など、異なる領域の分類体系が長い時間をかけて重なり、標準化された歴史的な構造である可能性が高い(儒教型陰陽五行)

ということです。

そして本稿では、さらに次の仮説を提示します。

十二支を四方へ三支ずつ配する構造は、固定的な十二支五行配当より前に成立していた可能性がある。辰・未・戌・丑の土配当は、その四方三支の構造を消すことなく、個別の五行属性として後から重ねられた再分類ではないか。(四象十二支論・狭義の消えた陰陽五行)

六壬の地盤、方合、三合に残る「四」の構造は、この仮説を考える重要な手掛かりです。

8. 第三章へ――制度が沈黙させた理論

第二章で示したのは、四支土説や個々の命術技法が、直ちに無効だという結論ではありません。

ここまでで明らかにしたのは、その一段階前です。

現行の十二支五行配当は、自然そのものから自明に導かれた単一の体系ではなく、異なる時代の天文・方位・術数・経学・政治思想が重なって形成された可能性があります。

しかし、ここで一つの疑問が残ります。

四方三支という古い骨格は、六壬の式盤に見た通り、実務のなかでは今も生き続けています。それなのに、なぜそちら側は理論として表舞台へ戻らず、儒教型の五行だけが「標準」として固定されていったのでしょうか。

理論として劣っていたからでしょうか。

それとも、そこには別の力が働いていたのでしょうか。

第三章では、命術の内部に残された技法を一つずつ検証しながら、四象十二支体系がどのように命術から姿を消し、現在の十二支五行が標準として定着していったのかを、さらに掘り下げていきます。

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