第一章⑵ので、武帝と董仲舒によって五行に儒教の道徳(五常)が接続され、国家の正統思想として採用されるまでの経緯を見てきました。 今回は同じ出来事を、もう一段解像度を上げて、当時の「3つの思惑」がどうぶつかり合った結果だったのかという舞台裏から見ていきます。
歴史の舞台に登場する「3つの思惑」
物語の登場人物は、大きく分けて3つです。
- 崖っぷちから大逆転を狙う「儒家」
かつて秦の時代に激しい弾圧を受け(焚書坑儒)、社会的影響力がガクンと落ちていた儒学者たちは、なんとか自分たちの思想を国に認めさせ、復活したいと必死でした。 - 権力をカチッと固めたい皇帝「武帝」
建国から約100年が経ち、7代目の皇帝として即位した武帝は、諸侯や諸子百家の思想がバラバラなまま残っていた国内を、いよいよ中央集権的にまとめ上げようとしていました。「自分の統治は天の秩序と一致している」ということをバシッと証明する、強力な統治理念を求めていたのです。 - すでにみんなの生活に溶け込んでいた「陰陽家」
自然のサイクルや五行を研究していた科学者グループです。彼らの五行思想は、すでに民間や政治の実務(暦づくりなど)に深く浸透していました。
この3つの思惑が、前漢の中期、武帝の時代にガチャンと結びつきます。
自然の科学から、政治の道具へ
復活を狙う儒学者の指導者・董仲舒(とうちゅうじょ)は閃きました。
「すでにみんなが使っている『五行』という絶対的な自然のルールを借りて、そこに自分たちの『儒教の道徳』をブレンドすれば、儒教の教えそのものに、ものすごい説得力を持たせられるんじゃないか?」
こうして、もともとは自然現象を説明する言葉(科学)だった五行は、儒教の道徳を人々に浸透させるための強力な「後ろ盾」として書き換えられていきました。これで、崖っぷちにいた儒家は一気に息を吹き返します。
そして、この儒教の説得力の高まりに、武帝も飛びつきました。
「皇帝の統治は天の秩序と一致している」と、すでに広く信じられていた五行という自然のルールを使って証明できるなら、これほど強力な統治理念はありません。
バラバラだった思想を一つにまとめ、自分の正当性を天下に示したかった武帝にとって、董仲舒が儒教普及のために練り上げたこの理論は、まさに求めていたものだったのです。
武帝はこの理論を国家公認の学問として採用し、「五経博士」や「太学」といった官吏の育成・登用の仕組みを儒教一色に整えていきました。
すると、それまで暦づくりや吉凶判断の実務を担い、五行の理論そのものを磨き上げてきた陰陽家は、皮肉な立場に置かれます。
自分たちの理論の中身は国家の中枢に採用されたものの、儒教の思想が混ざり、それを教え、官吏に授ける制度そのものは儒家の手に握られてしまったため、独立した学派としての発言力を静かに失っていくことになったのです。
こうして、純粋な「自然科学」であった五行は、一度去勢され、人間都合の「倫理哲学」へと姿を変えてしまいました。これこそが、現代まで二千年以上も誰も疑うことのなかった、五行の歴史における最大の人為的改ざんの瞬間だったのです。
焦っていた儒家、正当性を求めた皇帝、そして主役の座を降りることになった陰陽家――この3つの思惑が同じ時代に交差しなければ、いま私たちが使っている五行は、まったく違う姿をしていたかもしれません。
まとめ
もともと五行は、自然の観察から生まれた純粋な科学でした。しかし前漢中期、儒教普及を狙う董仲舒がこれを儒教の道徳と結びつけ、それが皇帝の統治理念としても好都合だったことで、五行は人間都合の「倫理哲学」へと姿を変えてしまいます。
その結果、五行という理論を本来担っていた陰陽家は主導権を失い、思想の表舞台から静かに退いていきました。いま私たちが目にする五行から、自然本来の姿が見えにくくなっているのは、この瞬間に起きた「主役交代」が原点にあるのです。

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