前回は、中国の古典が「仮託」
(新しい学説を、古い偉人や伝説上の人物の名を借りて書き、権威付けて広めること)
の文化の上に成り立っていることを見て、
古典を確かめる方法
【四つの物差し】――人物・時代・現物・誇張――
を説明しました。
『論語』『老子』『山海経』『黄帝宅経』、そして四柱推命の『滴天髄』まで、
実際に作者の名前と、できた時代がずれている古典を次々に見てきました。
その中で、仮託が最も大きなスケールで表れている例として取り上げたのが、
外交・占い・兵法のすべての祖に祭り上げられた鬼谷子です。
そして、その鬼谷子を祖と仰ぐ日本の占術として、算命学の名前を挙げました。
算命学は鬼谷子を祖とし、四柱推命をその枝とみています。
その根拠は、「四つの物差し」に耐えられるのか、それを今回は確認します。
先に結論を言います。
算命学の「鬼谷子から始まる2300年の歴史」は、四つの物差しの
どれにも耐えられませんでした。
ひとつひとつ、丁寧に見ていきます
算命学は「四千年・鬼谷子・王朝の秘伝」と公式に語る
まず、前回
「算命学は鬼谷子を祖とし、四柱推命をその枝とみている」と書いた、
その出どころを示しておきます。
算命学には、全体を束ねる一つの団体はありません。
ただ、創始者(または日本に算命学を広めた)高尾義政氏の流れをくむ学校が、それぞれの公式サイトで算命学の歴史を発表しています。
代表的なのは、
高尾氏と共同で1974年に設立され算命学の商標を持つ【朱学院】と、
高尾氏自身が設立した【髙尾学館】です。
その公式の説明をまとめると、こうなります。
「起源」は夏王朝の四千年前
「体系化」したのは鬼谷子
そして一子相伝の帝王学
夏王朝と鬼谷子、そして一子相伝
朱学院は、算命学の発祥を中国最古の王朝とされる「夏(か)」の時代に置いています。
夏王朝は紀元前21世紀頃から紀元前16世紀頃(今から約4100年前〜3600年前)に存在したとされていますが、神話と伝説、半伝説が入り混じっており、歴史の記録としては定かではない神秘的な王朝です。
そして春秋戦国時代に、それまでの陰陽五行思想と運命予測の技術を鬼谷子が集めて「算命」と名付けた、と説明しています。
別のページでは、約2300年前に鬼谷子によって体系づけられた、とも書いています。
ん?
・・・春秋戦国時代に陰陽五行をまとめた・・・???
鬼谷子の時代、「陰陽」と「五行」という2つの言葉は合体すらしておらず、
お互いまったく無関係な別々の意味で使われていたはずだが・・・
歴史上の文献で最初に「五行」という言葉が出てくるのは、紀元前4世紀から3世紀頃の『書経の洪範篇
』です。しかも、その中身は、占いでもなんでもなく、水や火や木といった「国を経営するために必要な5つの生活資材」のリストに過ぎないのです。
一方で、同じく古い文献『詩経』『左伝』に出てくる最初の「陰陽」も、単なる「日向と日陰」や「暑い・寒いというお天気」を指す言葉でした。日常のつぶやきレベルの言葉だったわけです。
陰陽と五行がもともと別の思想だったことは、1923年に中国の学者・梁啓超(りょうけいちょう)が論文で指摘していましたが、
1970年代以降に中国の遺跡から当時の竹簡や帛書(絹に書いた文書)が次々と発掘されて、さらに裏づけられていきました。
なので、算命学ができた当時の日本人や創始者の高尾氏がそのことを知らないでいること自体は不思議ではない。
でもさ、でもさ、今は令和だよ?
いつまでその当時の情報のままでいるのさ(-_-;)
算命学では、秦の始皇帝は算命学を軍略に使い、独占するために宮廷の外で学ぶことを禁じ、
漢以降の歴代王朝でも、お抱えの占い師だけが受け継いだと伝えています。
髙尾学館も、算命学は古代中国で秘蔵された帝王学だったとしています。
四柱推命は、算命学の漏れ出した「一部」?
王朝が倒れるたびに、算命学の一部が市中に流れ出し、
それが四柱推命・気学・九星術などの占いになった。
算命学の理論体系「十六元法」のうち、
「天法・地法」の二法だけを使っているのが四柱推命で、
その量は算命学の5分の1ほどだ――
これが朱学院の説明です。
日本へは戦後、亡命した伝承者から少年・高尾義政へ
戦後、中国共産党に追われた伝承者・呉仁和が日本に逃れ、少年だった高尾義政氏に伝えた。
こうして本家の中国では伝承が途絶え、日本で算命学が広まった、とされています。
四千年の歴史、鬼谷子、始皇帝、王朝の秘伝、そして四柱推命はその分家。
実に壮大な物語です。
【四つの物差し】――人物・時代・現物・誇張――で確かめる
では、前回の物差しを一つずつ当てていきましょう。
人物:鬼谷子
前回、鬼谷子が外交・心理・占い・兵法・オカルトのすべてを極めた全知全能の「スーパー仙人」に仕立て上げられていることを見ました。
では、その姿を、最も古い記録までさかのぼって確かめてみます。
『史記』には、有名政治家(縦横家)の先生として名前が出るだけ
鬼谷子の名が出てくる最も信頼できる記録は、司馬遷の『史記』です。
史記は前漢の武帝の時代、紀元前91年ごろに完成した歴史書で、いまから約2100年前のものです。ただし、鬼谷子が生きたとされる戦国時代(紀元前4世紀ごろ)からは、すでに約250年が過ぎています。
その内容は、
≪史記「蘇秦列伝」(巻69)「張儀列伝」(巻70)≫
縦横家の蘇秦(そしん)の伝記には「東の斉で鬼谷先生に学んだ」とあり、
蘇秦と双璧をなす張儀の伝記には「蘇秦とともに鬼谷先生に学んだ」とあります。
それだけです。
占いのことも、干支のことも、運命を算えることも、一行も書かれていません。
しかも呼び名は「鬼谷先生」です。
つまり「鬼谷という所に住む先生」というだけで、本名すら書かれていません。
ところが、時代が下るにつれて、鬼谷子にはいろいろなものが付け足されていきます。
前漢の武帝の時代(約2100年前):『史記』に「鬼谷先生」として登場。本名は書かれていない
前漢の末(約2000年前):「鬼谷子」という呼び名が現れる
唐・宋以降(約1000年前〜):王詡(おうく)王禅(おうぜん)という本名がこの頃に作られる
さらに後:「王禅老祖」という仙人として崇められる
古い記録ほど何も書かれておらず、
新しい時代になるほど名前や肩書きが増えていく。
鬼谷子という人物は、時代が下るほど後から「盛られて」いったのです。
書物『鬼谷子』は、占いの本ではない
鬼谷子の名を冠した書物『鬼谷子』も残っています。
この『鬼谷子』は、戦国時代の外交家たち(縦横家)の考え方をまとめた理論書で、人の心を読み、言葉で相手を動かす術を十数篇にわたって説いたものです。
ただし、この本も作者がはっきりしません。
鬼谷子本人の作とする説、
弟子の蘇秦が書いて師の名を借りたとする説、
さらに後の時代の作とする説があります。
そして、中身は「捭闔(はいこう)」――相手の口を開かせ、閉じさせる――
をはじめとする、人を説得して動かすための弁論・外交の術です。
干支で個人の運命を読む記述は、どこにもありません。
この本を疑う声は時代ごとに上がってきました。
唐の柳宗元(約1200年前):偽書と断じた
明の胡応麟(約400年前):六朝時代(約1500年前)の偽作と考証した
清の姚際恒(約300年前):同じく六朝時代の偽作と考証した
近年は出土文献の研究が進み、「戦国〜漢代の内容も含む」と見直されていますが、
鬼谷子本人が書いたとは示されていません。
唐代に『鬼谷子』の注釈を書いた楽壹(がくいつ)は、
すでに「蘇秦が自分の術を神秘的に見せるために、鬼谷の名を借りた」と見ていました。
千年以上前の注釈者が、仮託を疑っていたわけです。
「でも、鬼谷子は占いの神様なんでしょ?」
という声も聞こえてきそうですが、その「神様」の姿こそが、後の時代に作られたものです。
最も古い記録の中の鬼谷子には、占いの影すらありません。
「人物の物差し」で、鬼谷子は二重に引っかかります。
実在そのものが確かでない(第六章⑴)
うえに、
仮に実在したとしても、記録に残る鬼谷子は命術(算命学)と何の関係もない人物
なのです。
時代:戦国から昭和まで、約2300年分の記録がない
もしも、算命学が宗教であれば、「師がそういったから」と信じてもいいでしょう。
もしも、算命学が古代であれば、「術や師を疑わない」と信じてもいいでしょう。
でも、現代で学問とするならば、それに値する『根拠』が必要になります。
ただただ、そう言われているからそうなのだ、と思うのは盲信になります。
王朝の参謀役を担った術なら、正史に名前くらいは残る
中国の王朝は、代々「正史」を編纂してきました。
そこには天文や暦を担う役所のことも、占いのことも記録されています。
現に『史記』には、占い師たちの伝記である「日者列伝」(にっしゃれつでん)と「亀策列伝」(きさくれつでん)まであります。
始皇帝が軍略に使い、歴代王朝が参謀の術として独占したほどのものなら、詳しい中身は秘伝として伏せられても、その参謀の存在は史書に残るはずです。
しかし、正史のどこを探しても「算命学」は出てきません。
「一子相伝だから記録がない」は、どんな主張でも通ってしまう
「秘伝なんだから、記録がないのはしかたない」
という主張もありますが・・・
しかし、この理屈には逃げ道がありません。
記録が出てきた場合:一子相伝ではなかったことになる。
記録が出てこない場合:何も証明できないまま。
どちらに転んでも、算命学の古さは証明されないのです。
実は私のブログの内容は、
一子相伝で夏王朝の禹王直伝の五行理論によるものです。
でも、一子相伝なので証明するものは出せません。
信じてくれますか?
この理屈は、まったく同じように通ってしまいます。
証拠がないことを、証拠の代わりにしているからです。
髙尾学館自身が「日本で初めて公開したのは昭和40年代」と書いている
では、確かめられる最も古い算命学はいつのものか。
髙尾学館の公式サイトは、算命学の理論は宗家・高尾義政氏によって「日本で初めて昭和40年代に公開されました」と書いています。
鬼谷子の時代:紀元前4世紀ごろ(戦国時代)
確かめられる算命学:昭和40年代(1965〜74年)の日本
そのあいだ、約2300年。
この空白を埋める記録は、一つも示されていません。
喜多家の禹王直伝五行理論と同じですね。
現物:『墓誌銘』と『李虚中命書』
実は、鬼谷子の名前が登場する占いの本が存在します。
その中で、最も古く、学者が本格的に検証したものが『李虚中命書』です。
しかし、その現物こそが、算命学の物語を最もはっきりと崩します。
『李虚中命書』は「鬼谷子撰・李虚中注」とされてきた
第三章⑵で、年・月・日の三柱で命を推した唐の時代(約1200年前)の李虚中を見ました。
その李虚中の名がついた占いの本が、『李虚中命書』です。
この本の冒頭には、李虚中が書いたとされる序文があり、本の由来がこう語られています。
昔、前漢の占い師・司馬季主(しばきしゅ)のもとに、「鬼谷子」と名乗る老人が訪ねてきた。
老人は、自分の遺した文書九篇を司馬季主に渡した。
私(李虚中)はその古い文書を手に入れ、いろいろな人の注釈を集めて一冊にまとめた――。
つまりこの李虚中命書は、
『鬼谷子が書き、李虚中が注をつけた本』
という触れ込みになっています。
しかし、その触れ込みは、清の学者たちが否定
ところが、この話は最初から成り立ちません。
司馬季主は、『史記』の「日者列伝」に出てくる前漢の占い師で、約2200年前の人物です。
戦国時代の鬼谷子とは、100年以上も時代がずれています。
清の時代(1781年、約250年前)に国家事業でこの本を調べた学者たちは、さらに次の点を指摘しました。
韓愈の墓誌銘:李虚中の占いの腕は褒めているが、本を書いたとは一言も書いていない
唐の時代の書物目録:李虚中命書の本がない
宋の時代の書物目録:ここで初めて名前が現れるが、書名も巻数もバラバラ
中身:前半は李虚中の「年・月・日」の方法に合うが、後半は宋の時代に生まれた「四柱」の説
序文の日付:唐の元和(806年)の日付なのに、その時代には使われていない年の書き方をしている
李虚中が生きていた唐の時代には、本の存在を示す記録が一つもなく、
名前が現れるのも、中身の後半も、宋の時代のものです。
序文の日付まで、後から唐に見せかけて書いた跡があります。
つまり、李虚中命書は
「唐の時代」の李虚中が書いたものではなく、
「宋の時代以降」に何者かによって作られた(少なくとも大きく書き換えられた)本
だということです。
鬼谷子の名がついた命術書の代表が、この李虚中命書
だから、学者たちは
宋の時代の占い師たちが自分たちの説を混ぜ込み、
「李虚中が鬼谷子の書に注をつけた」という名を借りて、
自分たちの術を神秘的に見せたのだろう
と仮託判定をしています。
しかも、元の本はすでに失われていて、いま読める『李虚中命書』は、
明の時代(約600年前)の百科事典『永楽大典』に写しされていたものを、
清の学者が抜き出したもの
のみです。
それより古い現物は、どこにも残っていません。
つまり、鬼谷子の名がついた命術書の代表であるこの本も、たどれる一番古い現物は、約600年前の写しでしかありません。
鬼谷子が命術の祖であったことを示す『現物』は、この本からは、戦国時代から明の時代にいたるまでの約1700年間、ただの一つも見つからないということになります。
鬼谷子の名を祖とする根拠になる現物は、一つもない
結局のところ、私たちが目にする『李虚中命書』は、
宋代の占術家たちが自らの術に箔をつけ、神聖化するために、
戦国時代の伝説の奇才「鬼谷子」と、
唐の天才占い師「李虚中」という
二大巨頭の名を勝手に偽った本にすぎません。
まとめると、この本は、
名前:鬼谷子(約2300年前)
注釈:李虚中(約1200年前)
書き足された中身:宋(約1000〜700年前)
たどれる一番古い現物:明の写し(約600年前)
という、時代がバラバラの本です。
李虚中命書が、鬼谷子から占いが始まった証拠どころか、
できあがった占いの本に後から鬼谷子の名をつけた実例だったのです。
算命学が「鬼谷子が祖」と言っても、それを支える現物は一つもありません。
私の占術が
「夏王朝の禹王が祖です」
「でも、それを示す現物はありません」
と言っても、それでも信じてくれますか?
皮肉なことに、算命学は
「時刻は人間が作ったもので、自然のサイクルではない」
として、時柱を使いません。
ところが、
鬼谷子の名がついたこの代表的な命術書には、その時刻を入れた柱がしっかり登場します。
祖とあがめる鬼谷子の名を持つ本が、算命学が退けている時柱を使っているのです。
前回の『滴天髄』と同じ構図
『李虚中命書』
作者とされる鬼谷子:戦国時代(紀元前4世紀ごろ)
注をつけたとされる李虚中:唐代(9世紀初め)
中身の四柱の説:宋代(10〜13世紀)
『滴天髄』
作者とされる人物:宋の京図(正体不明)、または明初の劉基(14世紀後半、約650年前)
確認できる最古の刊本:明末の『新鍥誠意伯秘授玄徹通旨滴天髄』(17世紀前半、約400年前)
どちらも、作者の名前は古い時代に置かれ、本として確かめられるのはそれよりずっと後の時代です。
『李虚中命書』では名前と中身のあいだに1300年以上、『滴天髄』では劉基の死から確認できる刊本まで200年以上の開きがあります。
しかも、どちらも占いの世界で名の通った人物の名を借りて権威付けている点が共通しています。
現物が示しているのは、
「鬼谷子から命術が始まった」ことではありません。
「できあがった命術に、後から鬼谷子の名が付けられた」ことなのです。
誇張:「四千年」「すべての占いの元」
「四千年前・夏王朝」は、干支の記録すらない
算命学は4000年前を起源としていますが、
『干支』が確かめられる最も古い現物は、殷の甲骨文に刻まれた六十干支の表で、
およそ3300年前のものです。
『陰陽』はさらに新しく、天地や四季を生み出す原理としての「陰陽」が書かれた最も古い現物は、
前回『老子』のところで触れた郭店楚簡(戦国中期、約2300年前)の『太一生水』という文書です。
算命学が起源に置く「夏」は、その殷より前の王朝で、実在そのものがいまも議論の段階にあります。
私の占術の起源は
「人類がアフリカで誕生した当初にあります。」
って言っても信じてもらえますか?
確かめようのない王朝に起源を置く。
前回の『山海経』が、伝説の禹王の名を借りていたのと同じ手法です。
『史記』が伝える始皇帝は、占いの書を焼かなかった
「始皇帝が算命学を恐れて封印した」
「宮廷の外で学ぶことを禁じた」
という話も、どの史書にも出てきません。
それどころか『史記』は、
始皇帝が紀元前213年に行った焚書で、医薬・卜筮(ぼくぜい=占い)・農業の書は焼かずに残したと伝えています。
史料に残る始皇帝は、占いの書を封印するどころか、わざわざ焚書の対象から外していたのです。
「四柱推命も気学も算命学から生まれた」は、成立の順番と合わない
朱学院は、四柱推命や気学が算命学から流れ出したものだとしています。
しかし、それぞれが文献に現れた時期を並べると、順番が合いません。
四柱推命:『淵海子平』は明代の刊本、『三命通会』は1578年の刊本
気学:1924年、園田真次郎が九星術をもとに日本で創始
算命学:昭和40年代(1965〜74年)に日本で初めて公開
派生したとされる側の方が、元とされる算命学より先に現物で現れています。
気学に至っては、成立年も創始者も分かっている日本の占術です。
私の占術は人類の起源であるアフリカで約20万年〜30万年前です。
全ての占術の元であり、算命学は我が占術の枝です。
って言っても信じてくださいね?
算命学の内部にも、同じ結論に達した人がいる
ここまでは、外から物差しを当ててきました。
ところが、算命学の内部にも、同じ結論に達した人がいます。
高尾学館・伝習院で教えた伯耆弘徳氏は「中国には算命学は存在しない」と書く
伯耆弘徳(ほうき こうとく)氏は、髙尾学館と伝習院で長く学び、1999年に総本校から教授の公認を受け、髙尾学館の鑑定所での鑑定や伝習院の講師を務めたあと独立し、福岡で万象算命創楽院を主宰している算命学者です。
その伯耆氏は、自身の公式サイトで「中国には『算命学』なるものは存在しません」と明言しています。
中国・台湾の「算命」と日本の算命学はまったくの別物で、古代中国の陰陽五行思想を原材料として輸入し、第二次世界大戦後の日本で組み立てられた、いわば「メイドインジャパン」の学問だ――という見解です。
そして算命学を、宗家・高尾義政氏が創り出した学問と位置づけています。
高尾宗家の直弟子から伝承を聞いた算命学講師も「権威付けの物語」と書く
もう一人、算命学教室を運営する「さる山さる子の算命学」の講師、さる山隊長の解説です。
さる山隊長は、呉仁和から少年・高尾義政へという伝来の話について、その出典は高尾氏自身が弟子たちに語った物語であり、自分はそれを高尾氏の直弟子から直接聞いた、と書いています。
そのうえで、老子や鬼谷子に始まる、王朝で一子相伝された、すべての占いの大元である――といった話は眉唾だと退けています。
理由は、古代中国の文献に算命学について語ったものがないこと。
王朝の参謀役を担ったほどのものなら、正史にも『史記』にも記録が残ったはずだ、と。
そして、これらは「権威付けの為の物語」であって歴史的な事実とは言えない、今日の算命学は高尾氏が伝承者から学んだものを基礎に、新しい理論を築いて創り上げたものだ、とまとめています。
高尾系の本流の中ですら、中国の一子相伝説は採られていない
別々の教室を主宰する二人が、それぞれ独自に同じ結論に達しています。
それは、今回四つの物差しで外から測った結論とも一致します。
高尾系の本流の中ですら、中国の一子相伝説は採られていないのです。
「じゃあ、高尾先生が嘘をついたってこと?」
そうではありません。
前回見たように、古い偉人の名を冠して新しい学説を権威付けるのは、中国古典の慣行でした。
高尾氏は、その型どおりに算命学の物語を語ったと見るのが自然です。
作った側は、それを計算してやっています。
本当に問題なのは、前回も書いたとおり、後の時代の読み手が表紙の名前をそのまま信じ込んでしまうことです。
算命「学」と学問を称するのであれば、
「信じる」のではなく、「証明」することが大切ではないでしょうか。
四柱推命は算命学の「枝」ではない
文献が先にあるのは四柱推命の側
朱学院は、十六元法を「1000年以上前の体系」と説明しています。
しかし、それを記した昭和以前の文献は、一つも挙げられていません。
幹と枝の関係を名乗るなら、幹の方が先に現物で現れていなければなりません。
ところが実際には、
四柱推命の側には唐の李虚中から明の『三命通会』まで、何百年分もの文献が残り、
算命学の側は昭和40年代の日本から始まります。
幹とされる側が、枝とされる側より何百年も後に現れているのです。
ここまで、証明できているのは四柱推命側であり、算命学側ではありません。
四柱推命に対する算命学の優位性を「主張」するのであれば、
算命学の起源を≪信じること≫ではなく、
≪証明できること≫であるべきではないでしょうか?
それは違う、秘匿されていただけなんだ、と
「信じる」ことは否定しませんが、
それは他占術よりも優位性を語ることとは別です。
ただし、四柱推命の古典にも同じ物差しを当てなければならない。
ここで「だから四柱推命が正統だ」と言って終わるつもりはありません。
前回見たように、四柱推命の三大古典の一つ『滴天髄』も、劉基の名で権威付けられた本でした。
物差しは、自分たちの古典にも同じように当てなければ意味がありません。
ここが、本筋なのです。
前回の最後の問い――蔵干は本当に徐子平の論なのか。
次回からは、いよいよ四柱推命自身の古典を確かめていきます。
まとめ
今回いちばん伝えたかったのは、
「古い人物の名前は、その技術が古い証拠にはならない」
ということです。
私自身は、算命学の優位性どころか、
四柱推命の「徐子平」「徐大升」の存在すら疑っているのです。
算命学の「鬼谷子から2300年」の歴史は、
人物では、記録に残る鬼谷子が命術と無関係で、
時代では、戦国から昭和までの記録がなく、
現物では、鬼谷子の名の命術書が宋代の中身で、
誇張では、確かめようのない夏王朝と、史料と逆の始皇帝像に支えられていました。
そして、それを内部から認めている算命学者たちもいます。
古典の名前を疑うことは、その占術そのものを否定することではありません。
名前ではなく、中身と成り立ちで確かめるということです。
では、私たちが学んできた四柱推命の古典は、この物差しに耐えられるのでしょうか。
しっかりと見ていきましょう。

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