第三章では、ここまで命術という技術がどのように形を持つようになったのかを見てきました。
⑴では、命術がそもそも何であるかを確認しました。
干支は本来「いつ」を記録する記号でしたが、出生年を個人の属性とすることで「誰か」を示す情報へと変わりました。しかし、出生年という一つの情報だけでは、同じ年に生まれた人々を区別する限界がありました。
⑵では、この限界を古代の人々がどう乗り越えていったのかを追いました。
この限界を超えるため、後漢から魏晋南北朝にかけ、複数の時間情報を組み合わせる約六百年の試行錯誤が続きました。これを唐代の李虚中が「年・月・日」の体系へと整理しましたが、現在の四柱推命とは構造も技法も大きく異なる姿をしていました。
李虚中法では、出生した年・月・日という三つの時間が中心となっていました。
しかし、その後、命術にはさらにもう一つの時間情報が加わります。それが「時」です。
三つの時間から四つの時間へ
年・月・日。
そこに出生時刻が加わることで、年・月・日・時という四つの時間を用いる形式が成立していきます。
現在の四柱推命が「四柱」と呼ばれるのは、この四つの時間を、それぞれ一つの柱として扱うためです。
そして、この四柱の形式と日干を中心とする命式の読み方を考えるうえで重要な人物として登場するのが、徐子平です。
徐子平は、北宋時代の人物として伝えられています。
現在の四柱推命につながる技法は、彼の字(あざな)である「子平」にちなんで「子平法」と呼ばれ、四柱推命そのものが「子平推命」「子平八字」と呼ばれることもあります。それほどまでに、徐子平の名前は、この技術の代名詞になっているのです。
子平法では、出生時刻を含めた四つの時間を用い、日干を中心として命式全体を読み解く方法が整えられていったとされています。
※ちなみに、徐子平の名を冠した文献として今日に伝わるのは、『珞琭子三命消息賦』という書物への注釈(徐子平注)です。ただし、同じ書物には他にも複数の人物による注釈が並行して伝わっており(李仝、王廷光、釈曇瑩など)、徐子平注はそのうちの一つという位置づけになります。この点、および「日干中心」という読み方の起源が徐子平に確実に帰せられるかどうかについては、次の段落で改めて扱います。
ここで、現在の四柱推命につながる基本的な構造が見えてきます。
李虚中法が、年・月・日という三つの時間を用いる命術だったのに対し
子平法では、年・月・日・時という四つの時間を用いる。さらに、日干を中心として命式を読む。
この変化によって、命式は現在の四柱推命に近い構造を持つようになります。
徐子平の実在性
「四柱推命を作った人物」は誰なのか
よく知られている「徐子平が四柱推命を作った」という話には注意が必要です。
四柱推命は、一人の人物がある時点で突然発明した技術ではありません。
それ以前から存在していた命術が、長い時間をかけて整理され、さまざまな要素を取り込みながら発展してきたものです。
そのため、李虚中と徐子平を「どちらが四柱推命を発明したのか」という二者択一で考える必要はありません。
李虚中は、バラバラだった命術を体系として整理する段階に位置し、
徐子平は、四柱という形式と日干を中心とする読み方が成立していく段階に位置づけられる。
――これが、これまで一般に語られてきた役割分担の説明です。
ただし、この役割分担そのものも、一つの伝統的な理解にすぎません。実は、この枠組みの片方を担う「徐子平」という人物自体、その実在に大きな留保がついています。
徐子平について残る問題
徐子平については、宋代の一次史料による実在の確認が困難であり、その事績の詳細には不確定な部分が残されています。
伝承では、徐子平は五代から北宋にかけての人物で、華山に隠棲したなどと語られていますが、これらはほぼ伝説の域を出ません。
研究者の中には、歴史上に徐子平という人物が実在したかどうか自体が定かではなく、後世に別人が名前を借りて残した、いわば仮託の人物である可能性を指摘する声もあります。
さらに、彼の名で伝わる注釈書(三命消息賦注)についても、「使われている命式の実例から年代を推定する」という研究の中には、その成立を伝承される五代・北宋期よりも後の南宋期に位置づけるものがあります。
※この年代推定は、特定の研究における一つの見立てであり、命術史全体で確定した通説というわけではありません。ここでは、徐子平をめぐる時期の特定に、こうした異論が存在すること自体を重視します。
もし、この見立てが正しいとすれば、少なくとも二つの可能性が考えられます。
一つ目の可能性は、徐子平は命術の開拓者と呼べるような人物ではなく、他の三命消息賦注の注釈者(李仝、王廷光、釈曇瑩)たちよりも、むしろ最も遅い時期に位置づけられる後発の人物、あるいは実在しない仮託の名であった、というものです。
二つ目の可能性は、徐子平自身は伝承どおり北宋期の実在した人物(伝説の名医や隠者)だったが、彼の名で伝わる注釈書そのものは、のちの南宋時代に、別人がその権威ある「徐子平」の名を借りて執筆した、というものです。
どちらの可能性を取るにせよ、共通して言えるのは、「徐子平」という名前と、私たちが実際に読むことのできる文献との間には、単純にイコールで結べない距離がある、ということです。
したがって、「徐子平が四柱推命を完成させた」という説明を、歴史上の確定事項として扱うことはできません。
重要なのは、徐子平という一人の人物にすべてを帰することではなく、
命術そのものが長い時間をかけて変化してきたという事実です。
出生した時間を手がかりに命運を読む技術は、
バラバラな試みから始まり、
年・月・日という組み合わせに整理され、
さらに時を加えることで、
現在の四柱推命へと近づいていきました。
では、この過程を一度整理してみましょう。
まとめ
李虚中法の「年・月・日」に、出生時刻が加わることで、
「年・月・日・時」という四柱の形式が成立していきます。
この変化に関係づけられているのが、徐子平と、彼の名で伝わる「子平法」です。
ただし、徐子平という人物自体、実在を裏づける一次史料は乏しく、実在したかどうかさえ定かではありません。
彼の名で伝わる注釈書の成立年代についても、伝承される時代より後の南宋期に位置づける見方があり、
「日干中心」という読み方の起源についても、史料によって説明が分かれます。
四柱推命は、徐子平という一人の人物がある日突然完成させたものではなく、
李虚中による整理から、四柱・日干中心という読み方の成立まで、長い連続のなかで形づくられていった技術であるのです。


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