琉球四柱推命|日干支の登場――時間が「個人を区別する構造」になった|消えた陰陽五行【第三章】命術の起源⑵

消えた陰陽五行【第三章】命術の起源

「人が生まれ時」と干支が結びついたあと、命術はすぐに整った形を持つようになったわけではありません。

黎明期の命術の多くは「出生年」だけで運命を読みました。後漢ごろ、西暦1世紀から2世紀頃のことです。

しかし、生まれ年だけを使う場合、同じ年に生まれた人は同じ情報を持つことになります。

生まれ年の干支だけでは個人の違いを見出しにくかったため、
魏晋南北朝、3世紀から6世紀頃になると、人々は「別の時間情報」を組み合わせる試みを始めました。

ある研究者は「生まれた日」を混ぜてみた
別の占い師は「生まれた季節(月)」を重視した
さらに別の術者は「母親のお腹に宿った日(胎月)」を計算に入れようとした

この試みは唐代初期にまで続きました。それは命術が生まれてからおよそ六百年間に及ぶ長い模索の始まりでした。
このように、当時は秩序だった発展ではなく、それぞれが独自の理論でバラバラに試行錯誤を繰り返すカオスな過渡期でありました。

そして、この混乱の中から、出生という一回限りの出来事を「複数の時間情報」によって捉えようとする新しい発想が生まれました。

年から、複数の時間情報へ

複数の時間情報を組み合わせることで、出生した個人をより具体的に捉えることができるようになりました。
命術の成立を考えるうえでは、この変化が非常に重要です。

それまで時間は、「いつなのか」を記録するものでした。

そこから、出生年によって個人を分類する情報となり、
さらに複数の時間の組み合わせによって、個人を区別する構造へと変化していきます。

つまり、時間の扱い方そのものが変わっていったのです。
その一つが、日の干支です。

日干支が重要なのは、年よりも細かい時間を示せるからだけではありません。

「生まれた日」という情報が加わることで、出生という一回限りの出来事を、より具体的な時間的位置として捉えられるようになります。

同じ年に生まれた人でも、日が違えば異なる干支を持つ。
その違いを命運の違いとして読む可能性が生まれます。


もちろん、この段階ですでに現代の四柱推命が完成していたわけではありません。
むしろ、ここではまだ技術的には非常に素朴な段階にあります。
重要なのは、出生した個人と時間との結びつきが、年だけではなく、月や日へと広がったことです。

ここから命術は、単一の時間情報による分類から、複数の時間情報を組み合わせて読む方向へ進み、体系的な構造を持つようになります。

李虚中と命術の体系化――四柱推命は誰が作ったのか

出生を複数の時間情報によって捉えようとする、まだ一つの型に定まっていなかった試みは、唐代になると一つの形へ整理されていきます。その中心に位置づけられる人物が、李虚中です。

後漢の頃に命術の萌芽が現れ、

魏晋南北朝の頃には複数の時間情報を扱う技術が発展し、

唐代になると、それまで蓄積されてきた方法が整理されていきます。

この整理によって、出生を捉えるための時間情報は、

年・月・日

という三つの組み合わせへとまとまっていきます。

李虚中は、唐代の命術家として知られています。
彼については、本人の著作が現在まで完全な形で残っているわけではありません。

しかし、その技術については、唐代の文学者・思想家である韓愈(かんゆ)が記した「殿中侍御史李君墓誌銘」(でんちゅうじぎょしりくんぼしめい)に重要な記録が残されています。

そこでは、李虚中が人の生まれた年・月・日の干支をもとに、生剋や衰旺などを考慮して、寿命の長短や貴賤、利不利などを推したことが記されています。

ここから分かるのは、唐代にはすでに、出生時の時間情報を用いて人の命運を判断する技術が存在していたということです。
そして、その方法が年・月・日という複数の時間情報を用いていたことも重要です。

『李虚中法』の誕生――四柱推命の前夜

後世、このような方法は「李虚中法」と呼ばれることがあります。

ただし、この段階の命術を現在の四柱推命と同じものと考えることはできません。

李虚中法では、出生の年・月・日を用いる一方、
「出生時刻」はまだ現在の四柱推命のような必須の構成要素として制度化されていませんでした。

※李虚中と同時代を生きた韓愈自身が書いた墓誌銘には、「年・月・日」までしか出てきませんでした。しかし、のちの時代に李虚中の名前を借りて伝わった『李虚中命書』には、なぜか「年・胎(宿った月)・月・日・時」という五本柱のモデルが登場し、時刻もしっかり組み込まれています。
これは後の時代(宋代あたり)の加筆がかなり混ざっていることが分かっていて、内容が一枚岩ではありません。
いずれにしても、「時刻」が李虚中の時代にはまだしっかり制度化されていなかったことを、逆説的に物語っているとも言えそうです。

また、李虚中法では
年柱が中心であったり、
五行の相生相剋よりも納音を使った技術だったりします。

※清代の文献『濯纓亭筆記』には、
「子平(徐子平)は虚中の術を受け継ぎ、そこに手を加えた。専ら五行を主とし、納音を主とはしない。ここでその法は、また一変した」という趣旨の記述が残っています。
つまり、「納音中心から五行中心へ切り替えた」のは、徐子平の仕事だったと当時から認識されていたわけです。裏を返せば、それ以前の李虚中法は、納音のほうを主軸に据えていた、ということになります。

ただ、それでも当時、体系化した李虚中法は画期的でした。
それまで、出生を捉える時間情報の組み合わせは一つの型に定まっていませんでしたが、李虚中法によって、年・月・日という三つの時間を用いるという形が、一つの体系として整理されます。

したがって、李虚中を「四柱推命を発明した人物」と考えるよりも、それまでバラバラだった命術を、一つの体系として整理する段階を担った人物と捉えるほうが適切です。

命術はここで、より明確な形式を持つ技術へと進んでいきます。
そして、その先で問題になるのが「時」の導入です。

第三章⑵のまとめ

出生年だけで運命を読んでいた命術は、後漢から唐代初期までのおよそ六百年をかけて、日・月・胎月といった時間情報を試行錯誤しながら取り込んでいきました。

その混乱を、年・月・日という三つの時間の組み合わせへと整理したのが、唐代の李虚中です。
ただし李虚中法は、

出生時刻を含まず、

年柱を中心とし、

納音を軸にした技術

であり、現在の四柱推命とは、まだかなり異なる姿をしていました。それは、

李虚中は、四柱推命の発明者ではなく、バラバラだった命術を一つの体系へと整理した人物であった
と言えるでしょう。

命術はここで、初めて明確な形式を手に入れました。
しかし、あと一つ、大きな空白が残っています。「時」です。

次回は、この空白がどう埋められ、年・月・日・時という四柱の形が成立していくのか——徐子平という人物とともに見ていきます。

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