琉球四柱推命|命術の誕生から四柱推命へ至る道|消えた陰陽五行【第三章】命術の起源⑷

消えた陰陽五行【第三章】命術の起源

ここまで、命術がどのように成立し、四柱推命へと近づいていったのかを見てきました。

もともと「いつ」を記録するだけの記号だった干支が、
出生年を個人の属性として扱う考え方によって「誰か」を示す情報へと変わり始めました。

しかし、その一つの時間情報だけでは個人を区別できず、当時の術士や知識人たちは、「日」や「季節」など別の時間情報を、それぞれ独自の考え方で組み合わせようとしました。
そこには秩序だった発展の順序はなく、バラバラな試行錯誤が続く時代がありました。

そして、この試行錯誤の先に、李虚中や徐子平という、後世「四柱推命の成立に関わった」と語られる人物たちが登場します。

しかし、この流れをきれいな一本道として語ってしまうと、第三章の⑵と⑶で確認してきた重要な留保を見失うことになります。

ここで一度、その留保を保ったまま、ここまでの流れを一旦、整理し直しておきましょう。

「命術の体系化」のそれぞれの意味を確認する

四柱推命以前の命術を「体系化」した、李虚中

まず、李虚中についてです。

韓愈が記した『殿中侍御史李君墓誌銘』という史料から、李虚中は生まれた「年・月・日」の干支を用いてその運命を推し量っていたことが判明しています。
これは命術の歴史において極めて重要な記録となります。

ただし、この史料だけから、
「それ以前の六百年近い試行錯誤を、李虚中がすべて集約し、年・月・日という体系へと整理した」
というところまでは確認できません。

したがって、ここで言う「体系化」とは、
「後世の四柱推命」と同じ完成度を持つ体系が唐代に成立した、という意味ではありません。

それ以前バラバラだった複数の時間情報の使い方が、李虚中のような人物によって、「年・月・日という一つのまとまりで扱われる」例が現れた、という意味に限定して理解しておく必要があります。

そして、この「年・月・日」という三つの時間が体系として扱われるようになるまでには、後漢から唐代に至るまで、およそ六百年にわたる試行錯誤の蓄積があったと考えられます。

「時が加わったこと」と「徐子平に帰属させること」はイコールではない

次に、徐子平についてです。
※命術や四柱推命を扱うものは「直観」よりも「ロジカルな思考」を重視する、とするならば、こういったことも把握するべきだと考えます。

ここは、より慎重に分けて考える必要があります。

「年・月・日」という三つの時間に、さらに「時」が加わり、
「年・月・日・時」という四つの時間を用いて命運を読む形式が成立していったこと。
これは、命術の歴史における一つの発展として確認できます。

しかし、その発展を、徐子平という一人の人物の業績として帰属させられるかどうか。
これは、まったく別の問題です。

すでに見てきたように、徐子平については、実在を裏づける確かな一次史料がなく、彼の名で伝わる注釈書の成立年代についても、伝承される時代より後の南宋期に位置づける見方があります。

つまり、
「四つの時間を用いる形式が成立した」という歴史的な発展と、
「それを徐子平という個人がもたらした」という伝統的な説明とは、
切り分けて扱わなければなりません。

前者はある程度たしかな発展の跡ですが、
後者は、後世に形成された物語である可能性を強く残しています。

そして、前者は「年・月・日・時」をただ扱い始めた段階であり、
後者は「年・月・日・時」をそれぞれ体系的に組み合わせた段階でもあります。

時間情報が増えること、と、時間情報を「読む」ことの違い

もう一つ、ここで確認しておきたいことがあります。

これまでの流れを見ると、まるで時間情報の数が
「年→年月日→年月日時」と増えていっただけ
であるかのように見えるかもしれません。

しかし、命術の発展は、それだけではありません。
そこには、少なくとも三つの段階を区別できます。

第一段階は、時間情報を個人と結びつけることです。
「この人は、この年に生まれた」というように、時間が個人の属性になります。

第二段階は、複数の時間情報を、一人の出生情報として重ねることです。
「この人は、この年、この月、この日、この時に生まれた」というように、複数の時間が一人の人物のもとに集められます。
先ほどの≪「時が加わったこと」と「徐子平に帰属させること」はイコールではない≫での「時が加わったこと」が段階的には第二段階になります。

第三段階は、その重ねられた時間情報を、一定の規則によって互いに関連づけて読むことです。
年・月・日・時を単に並べるのではなく、それぞれの時間に意味を与え、その関係から命運を読む。ここで、時間の集まりは単なる記録ではなく、命運を読み解くための構造として機能し始めます。
これが≪「時が加わったこと」と「徐子平に帰属させること」はイコールではない≫での「徐子平に帰属させること」が段階的には第三段階に対応します。
※ただし、ここで「対応する」というのは、徐子平という個人がこの段階を成し遂げたという意味ではなく、「徐子平」の名で伝えられてきた体系・文献群が、結果としてこの第三段階に相当する内容を備えていた、という意味に限定されます。

そして、この時間情報に意味を与える理論として、後に重要な位置を占めることになるのが、陰陽五行です。

この第三段階が指し示しているのは、単なる「読み方のルール」ではありません。

それは、個々の時間情報を、ある宇宙論的な体系の中に位置づけ直す作業です。
命術が四柱推命へ近づいていく過程とは、

単に時間情報の数が増えていく過程ではなく、
この第三段階、すなわち時間情報を宇宙論的な体系の中に位置づけ、互いの関係を読むための方法

が整えられていく過程でもあったのです。

命術と四柱推命は同じものではない

ここで、第三章の最初に戻ります。

命術は、最初から四柱推命だったわけではありません。

命術とは、出生時の時間情報を用いて人の命運を読むという、より大きな技術の流れです。

その中で、出生年が個人の属性となり、複数の時間情報を捉えようとするバラバラな試みが生まれ、その一部が年・月・日という形にまとまり、さらに時が加わることで、四つの時間を用いる形式へと近づいていく。

したがって、

命術の成立と、四柱推命の成立は、同じ一つの出来事ではありません。

命術は、一人の人物がある時点で突然発明したものではなく、長い時間をかけてさまざまな形が生まれ、その一部が後世の人物や文献と結びつきながら、現在知られている形へ整理されていったものです。

命術という大きな流れの中に、四柱推命が成立していったのです。

だからこそ、この章で問うべきだったのは「四柱推命がいつ完成したか」ではありません。
「人間の命運を読むために、時間がどのように構造化されていったか」です。

その視点に立てば、徐子平という一人の人物にすべてを背負わせる必要は、そもそもなくなります。

「時間の扱い方」と、もう一つの問題

ここまでで、命術という「器」が、時間をかけてどのように形づくられていったのかは見えてきました。

しかし、ここまで見てきたのは、あくまで「時間をどう命式にするか」という歴史にすぎません。

年・月・日・時という時間情報を、どのように出生と結びつけ、どのように重ね、どのように関連づけて読むか。それだけでは、四柱推命がなぜ、そこから人の命運を読み解けるのかを説明することはできません。

複数の時間を重ねただけでは、それはまだ、意味を持たない記号の集まりにすぎないからです。
その記号に意味を与え、互いを関連づけるための理論が、もう一つ必要になります。
その中で、後の命術に決定的な意味を持つことになる理論が、「五行」です。

木・火・土・金・水。

陰と陽。

相生と相剋。

そして後世には、旺衰、蔵干、格局など、さまざまな理論が加わっていきます。

命術という器の
「時間」が構造だとすれば、
「五行」は、その時間を自然や宇宙の構造の中に位置づけ、そこに意味を与える理論だと言えます。

では、この命術に組み込まれていった「五行」とは、そもそもどのような体系だったのでしょうか。
ここで、第二章で見てきた問題が、あらためて重い意味を持って浮かび上がります。

十二支には、
「東西南北」という四方と、それに対応する「四時(季節)」の構造がありました。

一方、五行には、
「木・火・土・金・水」という五つの要素と、「東・南・中央・西・北」という五方の構造があります。

つまり、ここには最初から一つの緊張関係があります。

四つの方向を基礎とする十二支と、
五つの方向を基礎とする五行は、
どのようにして一つの体系として結びついたのでしょうか。

これらは、最初から完全に一つの体系として存在していたわけではありません。
だとすれば、命術が発展していく過程で、この異なる構造を持つ二つの世界観は、どのように整理され、あるいは、一方が他方に組み込まれていったのでしょうか。

そして、もし現在私たちが知っている陰陽五行が、
その過程で形成された一つの体系にすぎない
のだとすれば、その過程で何が失われたのでしょうか。

命術という器がどのように作られていったのかを見てきたからこそ、次に問うべきなのは、その器の中身です。
複数の時間を意味ある構造として読むために、どのような理論が組み込まれていったのか。
ここからは、命術の成立史から、その理論を支えた陰陽五行の歴史へと視点を移します。

この問いを追っていくと、これまでとは別の歴史が見えてきます。

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