ー古典を印刷することが「知識」を広め、固定させたー
科挙によって「何を学ぶべきか」が絞り込まれ、
朱子学によって「それをどう理解するか」という解釈が与えられました。
しかし、「学ぶべき知識」と「正しい解釈」が定まっただけでは、
それが社会全体に、同じ形で行き渡るわけではありません。
ここに、もう一つの力が加わることによって、儒教色の強い陰陽五行が広がります。
それが「印刷技術」です。
ただし、印刷技術といっても、当時はまだまだ一枚岩の存在ではありません。
時代を追うごとに、印刷が担う役割そのものが変化していきます。
単に本の数を増やす技術から、
何を「正しい知識」として後世に残すかを左右する技術へ
その変化を、五つの段階で見ていきましょう。
陰陽五行を五段階で拡げた「印刷のチカラ」
1段階目:複製の技術としての印刷――唐代以前
現存する年代の明記された印刷物として、世界最古級とされるのが、868年に刷られた『金剛般若波羅蜜経』(こんごうはんにゃはらみつきょう)です。これは儒教の経典ではなく、仏教の経典でした。
唐代からそれ以前にかけての印刷は、主に仏典や暦、占いの書などを中心に発達していました。
実は、この時代に印刷された暦や占いの書のなかには、陰陽五行の思想にもとづくものが数多く含まれていました。
しかしそれらは、儒教の経典として扱われたわけではなく、あくまで実用書・占術書として複製されていたにすぎません。
そのため、陰陽五行は、この段階ではまだ科挙のための「正統」なものに限らず、様々な思想や解釈がただ広く生活のなかに存在していたのです。
2段階目:「正しい本文」を固定する力へ――五代『九経』
この状況が変わるのが、五代の時代です。
932年、後唐の宰相であった馮道(ふうどう)と李愚(りぐ)は、儒教の経典について、一つの大きな計画を進めます。
それまで儒教の経典は、人の手で書き写されることによって伝えられていました。しかし、書き写すたびに誤字や文章の違いが生じてしまいます。
そこで彼らが考えたのが、唐代に石へ刻まれていた経典、開成石経(かいせいせっけい)を「正しい本文」のお手本として、それをもとに木版を作り、同じ経典を大量に印刷するという方法でした。
つまり、「人がそれぞれ写す」のではなく、「正しいと認めた一つの本文を木版に刻み、その版を使って同じ内容の本を何冊も作る」ということです。
この計画の対象となったのが『九経』(きゅうけい)でした。
そして、この事業は国家の最高教育機関(国子監)を中心に進められ、五代十国時代の後周の953年に完成します。
ここで重要なのは、印刷技術そのものよりも、「何をお手本として印刷するのか」という点です。
このときお手本として選ばれたのは、国家が正統な経典として扱っていた儒教の経典でした。
つまり「この本文が正しい」という基準そのものを固定し、その同じ本文を繰り返し複製できるようになったのです。
3段階目:「正しい本文」を広める力へ――北宋
北宋に入ると、印刷は国家だけの独占物ではなくなります。
官による出版に加え、民間の出版業も発達し、儒教経典だけでなく、歴史書、思想書、文学作品など、扱われる書物の範囲は大きく広がりました。
大量複製は書物の価格を押し下げます。それは、
それまで「一部の階層」に限られていた読書という行為を、
「広い層」へと開いていくことを意味します。
科挙の受験者が増え続けたこの時代、この普及は、受験知識を多くの人が手に入れやすくする土台になりました。
民間出版の広がりによって、陰陽五行に関する書物もまた、市場には数多く流通するようになります。しかしそれらは、あくまで科挙とは無関係な民間の実用書・占術書として扱われるにとどまり、国家の教育制度に組み込まれることはありませんでした。
「広く読まれる本」と「正統として学ばれる本」は、この時点で明確に分かれていったのです。
4段階目:「解釈」を固定する力へ――南宋『四書章句集注』(ししょしょうくしゅうちゅう)
ここまでの段階で印刷されてきたのは、基本的には「古くから伝わる経典」そのものでした。
しかし南宋になると、これとは性格の異なるものが印刷され始めます。
新しい儒学者による、新しい解釈そのものです。
朱熹(しゅき)の『四書章句集注』(ししょしょうくしゅうちゅう)は、南宋期に刊行され、その後の科挙制度と結びつくことで、四書をどう読むべきかという特定の解釈を広める重要なテキストとなっていきます。
古い経典ではなく、朱熹という一人の学者による「読み方」そのものが、一冊の本として世に出回るようになった、ということです。つまり、印刷は、
本文だけでなく、特定の解釈そのものを固定し、複製する技術へと変わります。
これが、今回のなかで最大の転換点です。
ここで見逃せないのは、朱熹自身は儒教型以外の陰陽五行の思想を否定していなかった、という点です。
朱熹は『太極図説解』などを通じて、陰陽五行を自らの理気哲学のなかに取り込み、儒学の体系として再構築していました。
しかし、印刷によって固定され、後世に伝えられたのは、あくまで朱熹によって再解釈された「儒教型」の陰陽五行でした。
民間で流通していた占術的・道教的な陰陽五行は、この解釈の外側に置かれたまま、科挙の公式教材として、同じように繰り返し複製される位置には置かれませんでした。
5段階目:「国家が定めた解釈」を再生産する力へ――元・明
この『四書章句集注』が、決定的な意味を持つようになるのが、元代です。
宋代には科挙が盛んに行われていました。
しかし、宋と金との戦争、さらにモンゴルによる征服戦争によって中国の政治情勢は大きく変化し、南宋が滅亡して元が中国を支配すると、科挙はいったん途絶えることになります。
その後、元の支配が安定してくると、科挙を再び行う動きが始まります。
1313年、元の第8代皇帝・仁宗(じんそう)は詔を発し、科挙を復活させます。
そして、その科挙において朱熹の『四書章句集注』が受験の基準となる重要なテキストとして位置づけられました。
以後、朱熹の解釈は科挙制度と結びつきながら、国家的な正統性を強めていきます。
明代、永楽帝(えいらくてい)は1415年、『四書大全』(ししょたいぜん)『五経大全』(ごきょうたいぜん)『性理大全』(せいりたいぜん)という三つの注釈書を勅命によって編纂させます。
これらは地方の学校にまで配備され、科挙における公式な解釈の基準として機能しました。
ここに至って、印刷は最後の役割を担うようになります。
国家が定めた「正しい解釈」を大量に複製し、
教育の現場を通じて、受験者一人ひとりの手元に、同じ内容として繰り返し届ける。
そして受験者は、国家が指定した経典と注釈を基準として答案を作ることを求められ、
その知識体系を身につけた者が、官僚への道を進むことになります。
『性理大全』のなかには、たしかに陰陽五行に関する記述も含まれています。
しかしそれは、あくまで朱子学の理気哲学に組み込まれ、儒教的に整理し直された陰陽五行でした。
そして、
それこそが陰陽五行の「正統」として現代に至るまで根付く土台となったのです。
また、
それ以外の陰陽五行が「傍流」として、静かに中華社会から存在を弱めていくことになったのです。
印刷が「正統」を作ったわけではない
ここで、一つ確認しておきたいことがあります。
印刷そのものが、儒教型陰陽五行を「正統」にしたわけではありません。正統性を与えたのは、
科挙という制度であり、
朱子学という思想体系です。
印刷が担ったのは、それらによって選ばれた知識や解釈を、大量に複製し、広い範囲へ伝え、次の世代へ残していくことでした。
複製する技術から、本文を固定する技術へ。
本文を固定する技術から、それを広範囲へ普及させる技術へ。
そして、特定の学者の解釈を固定する技術から、国家が指定した解釈を世代を越えて再生産する技術へ。
印刷は、この五段階を経て、単に情報を広めるための中立な手段ではなくなっていきました。
何を印刷するかという選択そのものが、何が「正しい知識」として後世まで残るかを、間接的に決定する力を持つようになったのです。
そして、一度「正統」として位置づけられた知識は、そうでない知識に比べて、はるかに伝承されやすくなります。逆に言えば、この仕組みの外側にある理論は、同じだけの教育機会や出版機会を得られるとは限りません。
ある理論が国家によって明確に禁止されたかどうかだけではなく、
国家の教育制度に組み込まれず、科挙の基準にもならず、公式に重視される書物として繰り返し印刷される機会も少なければ、その理論は徐々に伝わりにくくなっていきます。
教える人が減り、学ぶ人が減り、書物が残りにくくなれば、やがて後世から見えなくなることもあり得ます。
五代の『九経』が選ばなかったもの、
南宋の朱熹が取り込みきらなかったもの、
元・明の「大全」が採用しなかったもの、
消えた陰陽五行は、その一つひとつの選別の場面で、静かに複製の輪の外側へと押し出され続けてきました。明確な弾圧が存在しなくとも、この五段階の循環から外れ続けることによって、その理論は少しずつ後世から姿を消していく――。
では、科挙が定め、朱子学が理論づけ、印刷が固定し、広めた「正しい知識」の外側にあったものは、どのような運命をたどったのでしょうか。
明確に禁止されたわけではない。けれども、教育される機会を失い、試験で求められることもなく、公式に重視される書物として繰り返し印刷される機会も少なくなっていく。
そうした環境のなかで、正統の外側にあった理論は、どのように変化し、やがてどうなっていったのでしょうか。

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